人生記憶

数あるサイトの中から訪問感謝いたします。私の人生の見つめ直し記録・記憶です。

番外編:小学生、夏休みの宿題(自由研究編)

早く中学生編を書きたいが、(中学生編のネタはちょこちょこ小出しにしてる)

 

ちょっといったん小休止の番外編を入れたいと思う。

 

これも、読書感想文と同じく、母が結構情熱をもっていたことが

 

夏休みの自由研究!!

 

・昆虫館へ行って、蝶の研究

奈良県の古都へ行って、十二単が着られる所があったので、

歴史の研究 飛鳥時代奈良時代平安時代などを研究した。

 

またまた、創作系では「紙すき」なんかを行っていた。

 

「紙すき」のやり方

 

私が、当時はまっていた。ハム太郎のおもちゃで「カミコロジー」という

おもちゃがあった。

 

細かく破った広告やチラシをミキサーに水と混ぜて、粉砕する。

その後、洗濯のりを混ぜて、紙すきの型に入れ、新聞紙の上で乾かす。

 

そうすると、はがきサイズの一枚の紙ができあがる。

 

使う広告や折り紙によっていろんなものが作れるので、

結構楽しかったように思う。

 

みなさんには、小学生時代の

自由研究の思い出はありますか?

 

私は一つのことを突き詰めることがすきです。

もっともっと、自分が理系の能力が高くて、

何かを研究してみたいという強い意志やきっかけさえあれば、、、

コナンの灰原哀や、「動物のお医者さん」の菱沼聖子みたいになりたかったなぁと思うこともある。

 

例え話がアニメや漫画のキャラクターの時点で現実味が見れてないのだが・・・。

 

 

 

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番外編:夏休みの宿題(読書感想文編)

 

私の母は、読書が好きで、実父に怒られて、押し入れに閉じ込められても、懐中電灯を持ち込んで、

秘密基地みたいにして、黙々と読書に励んでいたらしい。

 

むしろ本に熱中しすぎて、でてこなかったので、

心配されたそうだ。

 

そんな母は、母が小学生時代に書いた読書感想文が、

全国で2番に選ばれたという武勇伝を持っていた。

 

1番になれば、天皇陛下から表彰されるので、

本当は1番になってその夢を叶えたかったという。

 

 

母も祖母も皇室全盛期の時に、テレビにかじりついて、見ていたので皇室ファンだったそうだ。

中でも美智子様が好きだったらしい。

 

母の読書感想文は、小学校の担任など、

大人が読んで、大人に加筆修正されて、

それをコンクールに出してしまった為、

 

子どもらしさが足りなかったのか?

2位で特別賞という賞に落ち着いていた。

 

けれど、本当に僅差だったらしい。

 

そんなわけで、私の読書感想文の指導はスパルタが入っていて、毎年大変だった。

 

最終的に母が書いてしまうことや、母の下書きをなぞって、自分なりに変えるような作品になっていた。

 

それでも佳作など入賞したことはある。

だけど完全に自分の実力じゃないし、あんまり嬉しくなかった。

 

中学校で不登校をしたとき、わりと心許せる、国語の先生がいた。

その先生は魔女の宅急便が好きでジジのぬいぐるみをペンケースにつけていた。 

 

その先生に、読書感想文が

「るりはさん、これよく書けてるからコンクールに出すから清書して」と言われたんだけど、

当時、気力が無かったのと、学校内で目立ちたくないという気持ちがあったので他をあたって下さい。

と断ってしまった。

 

今はメルカリ  で読書感想文が買える時代ですごい。

もしゆとりがあればチャレンジさせてみるのも悪くないとは思う

 

その当時題材にした本は、

「エルマーの冒険」

「ありがとうフォルカー先生」

「びゅんびゅんごまが回ったら」という絵本。

 

「ありがとうフォルカー先生」は

LD(学習障害)を持つ5年生の女の子が主人公の本で、

フォルカー先生という先生に出会って文字が読めるようになって、女の子に光がさしていくというストーリーだ。

 

 

私も子どもの頃、漫画ばっか読まないで、活字の本を読みなさいとよく言われていた。

 

漫画本を公に読んでると母に注意されそうだったので、漫画の児童書をよく図書室で借りていた。

 

母は本がとにかく好きな人だった。

絵本屋さんや、本の作家さんの展覧会、絵本の作家さんの講演会にもよく連れていかれた。

毎年一回くらいだったが、作家さんと話して、絵本にサインをもらって

それはそれは楽しかった。

 

また、児童書では、「シェーラ姫の冒険」と

いうシリーズものの読み物にはまっていた。

 

小学校低学年、中学年時代は、

「ハムスターの研究レポート」四コマ漫画

ピータラビットのおはなし」(ミニブックシリーズ)

 

公文出版からでている、漫画ちっくな

いわゆる目がキラキラの赤毛のアン

(気に入って何度も借りて読んだ)

 

(私はネガティブ思考気味なので、

赤毛のアンの前向きさ、ひたむきさに憧れている)

 

大人になっても、

NHK朝ドラの「花子とアン

NHKの日曜11:00にやってる「アンという名の少女」を見ている。

 

また、「しずくちゃん」というキャラクターの絵本やシールブックにもはまっていた。

なんか不思議な親しみやすさがあった。ハム太郎

キャラクターの目が似てたからかな?

 

中学年、高学年時代は、

ひみつシリーズや、偉人シリーズに凝っていた。

 

秘密シリーズは、工事のひみつ、コンビニのひみつなど...

職業教育の一環で置いてあったのかな?と

思う。

 

ひみつというタイトルがつくと、何の秘密か知りたくなってしまう、昔から、好奇心旺盛な私だ。

 

偉人シリーズの漫画は、近年は、スティーブ・ジョブスターシャテューダーなど、新たな偉人もできている。

 

私は最近知った偉人の「シュヴァイツァー」の偉人の本があれば読みたいなと思っている。

 

また、何を思ったか、病院の待ち合い室で、

ベートヴェンやバッハ、モーツァルトなどの音楽家達の偉人の生い立ちの絵本なんかを読んでて、

泣けてきてしまった。

「みんな苦労したんだ」「耳が聞こえないのに、死ぬまで曲をつくるなんてすごすぎる」などなど、、、

難しい書物を読むより、絵本だったら何故か心に

すーっと入ってくるから不思議だ。

 

それで、マスクしたりして誤魔化していたけど、

かなり気まずかった。

 

同じく、人前で泣いてしまったエピソードでは、

私は感受性が強いので、細田守監督の

「オオカミ子供のアメとユキ」を映画館に見に行ったときに、隣の親子連れの親はあくまで付き添いという感じでスマホを見ていて、

映画は見ていなかったけど、男の子は、見ていて、

あまりにも、映画の映像が綺麗すぎて、感動して、

泣いてしまった。そしたら、男の子に

「お姉ちゃん、何泣いてるの?」と言われて

恥ずかしかった。

 

コロナ禍で「モモ」という児童書が有名になった。

 

私はこの本を高学年の時に読んだ。

今、こんな時代になって、再びモモに注目が集まっており、

「時間の大切さ、何も時短や効率化ばかりに囚われて働くことばかりが正しい」

というわけじゃないという価値観が注目されている。

 

また、たまたまボランティアで出会った医者が

「人生には、無駄なことでも、一見価値のあることもある」といっており、 

 

「どうしてそう思うのですか?」と聞くと、

 

医者は、回転寿司に行って、お酒を一杯飲むことが好きだったが、コロナ禍で、できなくなったので、大変寂しいと言っていた。

 

私は、医者から、この言葉を聞いて、

通勤時や休憩時に自販機でドリンクを買ってほっとする時間、

同僚や会社の人間との雑談など、一見無駄なことのように見えても

通勤時に季節の風や移り変わりを感じる

ツバメの巣を見つけるなど、

いろいろな気づきや経験には、価値があって、

コロナ禍でそれが少なくなってしまったので、

そんな時間が恋しいという事を聞いて

確かにその通りかもなぁと思ったのであった。

 

失って初めて気づく日々のありがたさがあったなぁとしみじみ思う。

 

Ruriha

 

番外編:小学校時代の過ごし方 (放課後編)

 

 

私の小学生時代の勉強は

主に公文式だった。

 

小学校の近くにあり、通学路も安全だったので

保護者も学童保育がわりに通わせて、

そこで勉強してから、帰ってくる児童が多かった。

 

現在は、4限授業 というのがないらしく、

小学校1年生から授業が、少なくても5限授業と

聞いたことがある。

 

4限授業を経験した身としては

4限授業がなくなって悲しい。

4限だと14:00には学校が終わっていた。

5限だと15:00で6限だと16:00に下校の

スケジュールだ。

 

けれど、今は保護者の方も共働きで忙しいので

PTAとか保護者総会とか、

保護者や学校の負担を少なくする役割も担っているのであろう。

 

一方で子どもが自由にする時間って減っていると

思っている。

 

今は習い事で毎日忙しくしてる子どもが

当たり前にいる。

 

学習指導要領が大きく変わり、

英語やプログラミングなんかが始まって、

いきなり、詰め込みすぎなんじゃないかと

少し心配に思う。

 

私の時代も、ELTの先生が来て英会話の授業はあった。

だけど机に座ってやる授業はなかった。

 

中学校の最初の英語の授業で、

アルファベットを習うのは健在らしいのだが、

そこを文法からとか、会話から。とかにしないと、

二重で勉強することになって、子どもが退屈してしまうような気がする。

 

また、プログラミングも、算数の一環でさらっとやるだけだったので、

みんながプログラミング、プログラミングって騒いでいたけど、なんか拍子抜けした。

 

学校の先生を担任の先生1人の責任に

押し付けると、

将来先生の担い手がいなくなってしまうような気がする。

 

また、不適応起こす子どもがたくさんになってしまい、手に追えなくなるような気がする。

 

義務教育なんて意味ないといいきる若者がいて、

私はこの世は学歴主義、権力主義な

社会と思って生きてきたので

衝撃を受けた。

 

勉強ができたら、高学歴なら、仕事ができる=

稼いで社会で独り立ちして生きていける

 

は必ずしもイコールではない現状があるので、

若者の言い分もわかる。

 

人それぞれ、考え方、価値観、得意、不得意、興味のあり方もそれぞれなのだから当たり前だ。

 

勉強が得意、スポーツが得意、美術、音楽が得意、人間関係が得意など、それぞれ適正があると思う。

学歴と職歴だけに偏った採用面接って何なんだろう。と思う。

 

教育の内容や大学入試のあり方。

 

職業選択の自由をもう一度

考える時期にきているのかもしれない。

 

今の現状を

当たり前として受けとめて、子どもも親も先生も学校も日本の社会で頑張ってるのですごいと思う。

 

 

私の親は、習い事をやめさせることはしなかった。

やめたい!というまでは、続けさせる方針だった。

 

今はだらだら目的もなく続ける習い事は、

月謝が勿体なかった。

 

と思ってるので、親のほうから

真剣にやらないなら、

お金勿体無いから見切るよ!と

叱咤激励してもらったほうが助かったかもしれない。と思う。

 

けどきっと、何か見つかれば、

それがこの子のためになるなら

月謝を払ってくれていたのは

親心だと思って感謝している。

 

 

私の時代はゆとり教育だったのかな?と思う。

社会に出て、土曜日も授業時間数も少なくなり

ゆとりだから...といわれても

そんなの文部省のお偉いさん方が決めたことで

それを受けてきた人達には、何も罪なんてないと思う。

 

私の勉強方法は、

一人でもくもくと家でワークを進めるような

勉強は私には向かなかった。

進研ゼミやZ会が流行っていた。

 

進研ゼミの勧誘の漫画は、

進研ゼミさえやれば、勉強はもちろん、友達関係も恋愛も、部活もうまくいく!という内容で

 

よく、そんな訳ないだろ、、、と

馬鹿にされていた(していた)ような気がする。

それを信じて頑張った子は上手くいったかもしれないけど...

 

 

私は、家で一人でやるより、

誰かの目があるほうが捗ったようだ。

 

くもんには、厳しいおばあちゃん先生と

40代くらいのミドルの若い先生がいた。

 

私は、厳しいおばあちゃん先生のことは苦手だった。

ミドル先生のことは好きで、

友達と一度家に遊びにいかせてもらったことがあった。

 

けど、今思えばおばあちゃんになっても頭の回転が早く、すらすらっと、パッと答えがわかるのってすごいなと思う。(公文式には解答書があるけど..)

 

ミドル先生は、大きな家に住んでおり、

大型犬と小型犬をそれぞれ一匹ずつ飼っていた。

 

先生は、

犬の服の着せ替えなども楽しんでいたように思う。

 

大型犬は、自分の体よりも大きかったので、少々怖かった。

 

私と、先日の記事で書いた友達も一緒の公文に通っていた。

 

当時は、ゲームボーイアドバンスが流行っており、それらで、ポケモンリーフグリーン、ファイヤーレット、エメラルドなどをして遊んだ。 

 

 

今でもポケモンは好きだ。

任天堂のキャラクター

(どうぶつの森の動物、ゼルダ、マリオ、カービィー、ポケモン)って

世代を超えて愛される長寿キャラクター

が多い気がして、すごい。

1つのコンテンツを長く、

少しづつリニューアルを

繰り返しながら、使う。

すると、ユーザーも愛着が湧くから親しみやすい。

世代間交流もしやすい。

 

 

私は姉がいるから、姉がゲームボーイカラーをもっており、ポケモン、金、銀、クリスタル、ピカチュウ、コロコロカービー  などでも遊んでいた。

 

コロコロカービーは、ゲーム機を傾けるから

なんかすごく楽しかった気がする。

 

公文式も終わってからも、家に帰らず、

だらだら別室で遊んでいたので、早く帰るように注意されていた。

 

公文式に行っていてよかったことは、

計算能力がついたこと、国語の読解力がついたこと。

 

 

いわゆる基礎学力がついたことだ。

 

中学の受験勉強のいわゆる、応用力というのはつけることができなかった。

 

基礎学力をつけたい人には公文式をお勧めする。

 

私は、親に中学受験を勧められたこともある。

 

だけど、私の学力と、勉強嫌いの性格では、

多分受験勉強を突破して、私立中に入るのは、無謀だったであろう。

 

しかしながら

今思えば小学校の友達と離れるためにも、挑戦してみれば良かったなと思う。

 

小学校が同じ子も何名か行くにしても、また全然違った環境、友達で過ごせたほうが自分自身も成長できたのではないかなと思う。

 

公文式も小学五年生くらいで辞めた。

 

公文式を中学生や高校生くらいまで長く続ける子どもがいるということは公文式で、働いたこともあるので最近知ったことだ。

 

私は何を思ったのか今思い返してもわからないが、

近所の進学塾に入ることになった。

(自分を変えたかったのかもしれない)

 

そこの進学塾には、いろいろな小学校から、

生徒が集まっており、中学校の学習準備も兼ねて、

入ることにしたのだ。

 

だけど、夕方からの集団授業と、

内容が、中学受験内容だったので、

さっぱりついていけなくて、寝てばかりいた。

 

私の苦手な集団授業と、鶴亀算

とかいきなり言われても、さっぱりだった。

 

結局身にならず、お月謝が勿体無いので、

3ヶ月くらいで辞めた。

 

中学校に入ったとき、同じ塾の子に

「寝てばかりいたやつ」とばかにされたりした。

 

何で入ることにしたのか本当に謎であるが、

当時、スクールカーストというのでいえば、

上位に入る子がいたので、その子達みたいに

なりたくて入ったのかもしれないなと思った。

 

その塾に入ってた子の一部は、私立中学に

進んでいた。

 

お門違いもいいとこで、身の程をわきまえればよかった。と今は思う。

 

なんか小6くらいに、いきなり

ファッションにも目覚めて、

nicolaとか読んで好きなモデルさん

(西内まりあちゃんとか日南響子ちゃん)の

髪型の真似とかしていた気がする。

 

こうしたら正解!上手くいく!

というのを小中学生の雑誌に求めていた。

今もたまにファッション誌を読むけど、

ほぼほぼ広告で、内容が薄っぺらくて少し物足りない。

なので付録目当てにたまに買うくらいだ。

 

 

つくづく、私達の情報媒体は

インターネットに移行したのだなぁと思う。

身近なネットにインフルエンサーがたくさんいる時代。

 

昔はとても雑誌が好きだった。

雑誌の話も機会があれば

また書きたいと思う。

 

ネットでは興味のある偏った記事しか見ないが、

雑誌の紙面には、

自分の興味のあるもの以外の紹介もあるので

視野が広がる。

ある意味出会いがある。

 

都内に住んでいる子はいいなぁと、

都会に憧れを雑誌からもった。

あと、東京から従兄弟が毎年、盆と正月に来るのだけど

いつも都会風吹かして、

 

伊勢丹で買ったプレゼントやその時々の流行り物をもってくるので、従兄弟の生活が羨ましかった。

 

従兄弟より先に流行のもの、最先端なものを

手に入れたことはない。

(DS.たまごっち.ipod. ipodtouch.携帯電話)など

 

 

 

生まれた環境や家庭の経済状況で、こうも、

子どものときから接するものが違うと、

人生違うんだな。

不公平だな。やりきれないなという気持ちが

ずっとあった。

私の家も貧乏という訳ではなかったけれど、

従兄弟の家が経済的に豊かだったから

余計にそう感じた。

 

逆に、地方の物価の安さに驚いていた。

 

私は、将来の夢とか

具体的なことは全然決められてなくて

周りに流されやすい性格だったこともあり、

自分の中で

アイドルブームがくればアイドル

漫画ブームになれば漫画家 

 

と本当に夢見がちなことを言ってた。

全然将来の生活のイメージなんて描けてなかった。

その時を精一杯生きていたからかもしれない。

 

ちなみに、幼稚園の時に将来の夢を一言で話す

ビデオを撮ってもらっていて、

「本がたくさん売っている本屋さんになりたい」

と言っていた。

 

中学校に入学すれば、また環境も変わるし、

自分を変えたかったし、少しは期待を持って、

中学校に進学したつもりだったけどね。 

 

Ruriha

 

小学校高学年時代 不登校の前兆

先にネタバレしてしまうと、

私は中学2年の秋から不登校になった。

 

思えばこの頃から学校という環境に

不適応、不適合を起こしていたように思う。

 

私は小学校高学年になると、

 

夜遅くまで、ラジオを聴いていて、

寝落ちする。

朝起きれない。学校に遅刻する。

学校への行きしぶり(学校に行きたくない)ということがはじまっていた。

 


表向きは上手くやっていきたかったけど、

なんか、上手くやれなくて、

理解してくれる人も片親の友人しか

いなくて、ストレスが溜まっていた。

 


けど、自閉症か、ダウン症をもっている子がクラスにいて、介助の先生がついていた。

その先生に会うことを支えになんとかやっていた気がする。

 

そんな子って結構たくさんいたような気がする。

 

障がいを持っている子も普通級で学ぶと、

理解や思いやりの気持ちが生まれて、

子どもも良い社会勉強になるので、

排除しないで、上手くやれたら良いと思う。

 

子どもは大人と違って、決めつけで物事を見ないので、柔軟な考え方ができる。

 


母に、「学校行きたくない、学校休みたい」と

告げると、

 

「休んでもいいよ」

と行ってくれる日

 

「母に、行かなかったら後悔するよ。行ったら楽しかった!」

と言って帰ってきてる日もあるよ。

 

と言われて

 


遅刻しても、何とか学校には登校していた。

 


学校と家は近く、

近くの家の子のほうが、油断してしまって、遅刻気味になったりするそうだ。

 


学校から家に帰って、家でリカバリーする時間が長くほしかった。

 


なので、夜遅くまで起きていた

深夜1:00くらい。

 


聞いていたラジオは、

スクールオブロック

「やまだひさしのラジアンリミテッド

を聴いていた。

 


聴きながら寝落ちすることが多かった。

 

完全に夜型生活だ。

 

また、漫画やアニメは、深夜アニメを見たり、

NANAを読んだりしていた。

 

作品でいう、NANAは、

結構好きなのだが、途中で作者が体調不良で

打ち切りのようになってしまって、

結末が見れず仕舞いで、悲しい。

けど、もう、前の話は忘れてしまっていて、

どこでどう止まってるかもわからない。

 

NANAの漫画の中には、

機能不全家庭(家庭の役割が上手く機能していない、不十分な家庭)

で育った登場人物達

(全員とは言わない)

がたくさん出てくるので、

現実にはあり得なさそうな話と思いながらも

なんか登場人物に憧れたり、

共感してしまうことが多かったように思う。

 

母は夜遅く、朝遅刻気味なのは、

ハラハラしてたみたいだけど、

朝食をきちんと用意して、送り出してくれることは、あんまりなかった。

 

父親が、朝早く、

一人で自分の分の朝ごはんを用意して会社に行っていたような気がする。

 

母も朝弱く、起きてこなかった日も多かったから、

机の上に置いてあるパンを食べて学校にいっていた。


なので、家族バラバラな朝ごはんだった。


CMでよく見る、母親が朝早く起きてきて、

朝食の準備をして、

家族揃っての朝ごはんは、

うちではあまり無い光景だった。

 

家族の形のCMって、そうでない人にとっては、

ちょっと、残酷だなって思う。 


大人になって、やっと、朝ごはんを食べることの大切さを学んだ。

 

学校の先生は、私は担任運がわるく、

6年間ほとんど男の先生で、

体育教師みたいな目先のことだけしか見ないで怒る人が多かったように感じる。

それか、見て見ないふりだ。

 

ルールは守るのが当たり前、それ以上でも以下でもなく、言い訳は聞きたく無いという感じだった。

 

先生って、このタイプが多い気がする。

自分が上手くやってこれたから、上手くできない子の気持ちを理解しようとしないで抑えつけて、

それで子どもが反発する。というパターン。

 

 

 

中には、「体育祭や文化祭など、イベントごとがある日は、遅刻せずにはりきって、参加できていたので、大丈夫ですよ」 

 

と言ってくれている先生もいた。

 

私はかなり自分に正直で、やりたいこと、やりたくないことがはっきりしている。

もう少し自分にも、グレーゾーンという、白黒はっきりさせすぎず、

とりあえず...

という部分を作らないといけないと

思っているところである。

 

大人になって社会に出たら、嫌だけど、やらなきゃいけないことが多いから

いろんなことを我慢して、我慢した分は違う場所で発散する練習をしておけばよかったと思う。

 

結局、〇〇はいけない、〇〇は悪いことだ。

といわれても、、、

何がどういけないということがわからないと、

自分も何故いけないかがわからなくて、

反発ばかりしていたように思う。

 

そんな幼さが残る子どもだった。

けど、担任の先生に、自分をもっている子どもだから、それを上手く表現して、周りと協調できていくといいのかなといわれたこともある。

 


このブログは、結末という結末は用意してなくて、

ただの人生振り返りブログなのだけど、

良いことも悪いことも、バランス良く、

書いていけたらなと思っている。

 

読んでくれる人が一人でもいる限りは、

打ち切りにならないようにはやっていきたいと思っている。

 

 

 

Ruriha

番外編:母との喧嘩、家庭の教育方針

ヘビーな話題でもあるので。

親子関係や家庭環境に

トラウマがある人は読まないことをオススメする。

 

私は家にかえってきて、母と喧嘩になった。

多分きっかけはささいなこと。

 

ランドセルを帰宅したらすぐ自室にもっていく。

すぐに宿題をする。

体操服などはすぐに洗濯物に出す など、

 

そういう基本的なことが

あまりできてなかった。

宿題も朝起きて登校する前にしたこともあった。

体操服も出し忘れることもあった

 

母はとても、子どもが好きで、

ボランティア精神が強い女性である。

 

母は母なりに実の父親に縛られずに

自己実現をしようと趣味やボランティアにすごく奮闘していたことがあって、

子どもながらにその趣味の押し付けが辛かった。

 

本音はもっと子どもの私だけを見て欲しかった。

 

ある時、物を大切にしなかったので母に怒られた。

その時、

 

「勉強したくてもできない子が世界にはいるの、もう、あなたの服も文房具も、全部、恵まれていない子ども達に送るよ」

 

といわれ、叩かれた。

 

母は、正しいこと、いろんな見方、考え方を

教えようとしていたと思う。

けど、教え方がよくなかったと思うし、ヒステリックに怒るので怖い。

 

母も更年期だったように思う。

 

私は、反抗して、

「虐待っていって、警察に電話する」

と冷静に助けを求めていた。

 

そのくらい母の怒り方はすさまじかったのである。

 

泣いてその時は反省するが、また同じことを繰り返していた。

全く、学ばない奴である。

 

感情的になって怒っても相手には響かないと私は思う。

 

一呼吸おいて、冷静に

何がどうで、どういけないのか言わないと

本当の母の想いや、

しつけというのは伝わらないのじゃないかと思う。

 

この母の想いを当時の私が素直に受け止めることができて、

喧嘩にならなかったら1番良かったなと思う。

 

私の家庭は、わりと教育熱心でしつけが厳しかったように思う。

 

しつけが厳しかったのは

世の中の常識や

人に不快な思いをさせないための

基本的な礼儀やマナーがわかったのでよかったと

思うこともある。

 

教育熱心な母であり、

その時、学研の教育教材の

「アクセル1」という教材をとっていたのだけど、全く手付かずだった。

 

 

テストだけ受けたりしてみると、悪い結果が帰ってきたので、その教材で勉強してないので当たり前なのだが、

泣いて、自分はどうしてこんなに出来ないのだろうと思っていた。

 

私は、母が勝手に私の意思を無視して教材を取ったように思っていたけど、

後に母に聞くと、

「あなたがやるっていったから」といわれた。

 

そんなこと言った覚えはないと思ってしまった。

 

溜めて、手付かずはお金がもったいないから、やらないなら解約したらいいのにとも思った。

 

あるある話だが、自室で勉強しようと思っていた。というときに母が入ってきて、勉強してるか?

と聞いてきて、嫌になってしまうことが多かった。

 

習い事は、週2回の公文が追加された。

あとは書店で買った、100マス計算のドリル

をやっていた。

 

おかけで、計算だけは早くなったように思う。

 

母の教育方針は、漫画禁止だった。

だけど、友達から漫画を借りたり、

親戚からもらった一万円分の図書カードを

漫画に流用していてこっそり買って読んでいた。

 

子どもっていうものは大人がどんなに禁止をして

制限をかけても、抜け道を探すものである。

一見、ずるいようでいけない事のように思うけれど、それがある意味でその子どもの逞しさ、生きる力なのである。

 

「ちゃお」や「なかよし」

の漫画の単行本だったり雑誌だったりした。

ちゃおが当時は1番人気で、

私はなかよし派だった。

 

りぼんを読んでいる女の子は、なんとなく

落ち着いてて、

大人っぽくてお姉さんって感じがした。

 

 

漫画は、姉のもってる漫画

テニスの王子様」「名探偵コナン

彼氏彼女の事情」「悪魔で候

「ラブコン」などを読んでいた。

 

どれも、名作だと思う。

1番、この頃が漫画にはまっていた。

ジャンプの漫画「BLEACH」や「NARUTO

DEATHNOTE」も

アニメがやってて、全盛期だった気がする。

 

父は仕事人間だったので、あまり子育てに参加することはなかったけど、

母が父にいいつけて、

父から怒られるということもあったので、

私は父を怖い存在だと思ってた。

 

昔の言葉で怖いものを表す時には、

 

地震、雷、火事、親父

という。

 

私は、親父が怖かった。

父親は普段は感情を表に出さず、何を考えているのかわからない。

 

クールで鉄仮面のようだが、

感情を表に出すと、マグマが噴火する様子なので

怖かったのだ。

 

正直、子どもにとって、初めて出会う異性は

父親なので、今も男性が怖いと思っている節がある。

 

巷では、家庭の主導権を握るのは母親が多いが、

私の家では父親だったのだ。

 

父は仕事ばかりであまり家庭にいなかった。

 

父の想いは、家族を養う、守るために、頑張って働いてる。という想いだったのだけど、

父は感情が見えにくいし、言葉で伝えてくれることも少ない為、

母と私は寂しかった。

 

姉は高校生で部活に明け暮れて、

家には寝るだけに帰っているようだった。

 

姉の高校生活はとても充実していたと思う。

家庭に居場所がなかったので高校に居場所を求めて、上手くやっていたのだろうと思う。

 

姉は器用で努力家だ。

 

けれど

姉も服装を祖父に注意されたりして、

祖父の怒りが、母に向くので

母は祖父に子育てがなってないと

責められて可哀想だった。

 

姉の高校は、私服だったので、

姉も、好きな服が着れなくていいこと無しだ。

 

私は、怒られて、

外に締め出されて鍵をかけられたこともある。

 

親って子どもにとって絶対権力だと思うから、

逆らえないし、今思ったら締め出しは、相当怖い。

 

私の家は団地やマンションではなかった。

団地やマンションの子は、

団地の子どもが締め出されても、

友達の両親や友達が

助けてくれたらしい。

 

昔は、ある程度叩いたりすることもしつけの一つだったし、締め出しも許容されてたかもしれないけど

親子の心に傷が残るし、

やらないほうが賢明であろう。

 

言うことを無理に聞かせようとすると、

堂々巡りになりかねないので。

自分で気付くまで、見守るのが良いのかなと思う。

 

怒りをコントロールしたり、冷静に伝えたりして、教えていくほうが、

上手くいくかはわからないけど、暴力や権利でねじ伏せるよりは数倍良いと思う。

 

発達障害の子どもは、耳で聞くのが苦手らしく、

視覚で訴えかけたほうがよく理解するそうだ。

 

 

怒りをコントロール(アンガーマネジメント)

するには、

深呼吸したり、トイレに行ったり、

握り拳をにぎって、3秒数えてみる。

などが良いそうだ。

 

 

子どもは、なんだかんだいって、親が好きで、

親に認めてほしい、愛して欲しいと思っている。

(思ってない子も中にはいる)

 

子どもながら自分の不甲斐なさも、

自分なりに理解して、自分と付き合っている。

 

子育てに正解はないし、親子でも人間同士だから、価値観が違って、

上手くいかないことも多いと思う。

 

だけど、子どもを言葉や暴力で傷つけることだけは、本当にしてほしくないと思う。

もししてしまったとしたら、

きちんと謝罪したり話し合いの時間をとって修復してほしいと思う。

 

私と母は、親子関係の修復の時間がとれたが、

姉は、大学で家をでて、そのままなので、

未だに母は姉との接し方を後悔しているらしい。

 

本当はもっと、姉と連絡を取り合ったり、

親子の時間をつくったりしたいと思っている。

 

いつか、姉も母や私に心を開き、いろんなことを話して、家族仲良くなれる日がくればいいのにな

と思っている。

Ruriha 

 

 

 

中学年〜高学年時代 ギャングエイジの始まり

 

子どもは、10歳頃から、反抗期がはじまるという。

勉強も友達との関係もこの頃から複雑になっていくからだ。

 

特に女の子は、現実感覚が強いので、

反抗期が早く来る。

また、初潮もこの頃始まるので、余計に悩みやすい時期だと言う。

 

私は.反抗期真っ只中だった。中高生時代が反抗期だとすれば、私はこの時が1番の反抗期だったように思う。

 

また、テレビドラマで、「ごくせん」とか、ヤンキーが流行っていた?こともあって、

言葉遣いも悪くなっていたように思う。

 

最近なら、「うっせえわ」という歌が流行って、

子どもが、急に「うっせえわ」という言葉を頻繁に使い出して、舌打ちをしたり、

言葉遣いが悪くなり、

困っている親御さんがいるという話を聞いた。

 

子どもはいい意味でも悪い意味でもテレビやメディア、漫画の影響を受けやすい

 

それが自分では、

良いか悪いか判断できずに使っていることが多い。

 

コロナウイルス  の影響でいろんなことが制限されていて、今子どもはとても強く我慢を強いられている。

 

少しくらいは多めに見ても良いのかなという気もする。

 

もともと、私は、女の子のグループ関係は得意じゃなかった。

本を読んだり、一人遊びも平気で、無理に仲良くしなくてもよかったけど、

一人でいて、周囲から浮いていると見られるのも嫌だった。

 

交換日記やプロフィール帳、プリクラが出てきたばかりで流行っており、ちょっとした、いじめや仲間外しもあった。

(当時、ナルミヤインターナショナルのブランドの

服が流行って、それを着てない子は仲間外し)

とか理不尽なものもあった。

 

ナルミヤは、エンジェルブルー、デイジーラバーズメゾピアノポンポネットブルークロスガールズとか、系統やブランドで分かれていた。

 

今も少しは残っていると思う。

 

高学年の女子は、

みんながみんな、我慢したり、

悪口を言ったり、言われたり、

辛い思いをしていたように思う。

 

男子もいろいろあると思うけど、男子は人間関係がさっぱりしていていいなぁと思っていた。

 

小学校卒業して、10年以上は経つけど、

やはり女の子同士の集まりとか、本来は

楽しいものなのかもしれないし、楽しいこともあると思うけど未だに苦手だ。

 

私が1番傷ついたのは、ある日、みんなで撮った

プリクラの友達の顔が、油性マジックで塗られていて、私はやってないのに、やったことにされたこと。

 

前後編のある映画を前編を皆でみにいき、後半は私抜きで誘われずに見に行かれてしまったこと。

 

そんな私だったのだが、

片親で、父子家庭の子と友達になった。

 

その子の寂しさと私の寂しさがくっついてしまったのだと思う。

 

私の寂しさは、友達関係のグループが上手くいかない。

姉のような優秀な成績や行いを求められること。

自営業なので忙しくて構ってもらえない寂しさ。

 

土日も他の家庭のようにあまり買い物や外食にも行けなかった。

加えて、祖父と母の仲が悪く、祖父の機嫌とりを私がさせられてたこと。

 

私は祖父自身とは仲が良く、祖父のことは好きなのだが、機嫌とりに使われることは嫌だった。

 

また曽祖母の介護も始まっており、

それも家庭の負担を倍増させたように思う。

 

その子は、親の離婚で、父子家庭で祖父母も弟もいた?ような気がするが、親の都合でいろいろ振り回されていたように思う。

 

親や家庭の都合でいろいろ振り回されるのは、両親そろっている私も同じだった。

 

友達は、

前の家、前の生活に戻りたいとずっといっていた。

前の生活は、犬を飼っていて、可愛い自転車もあったが、マンション暮らしになった都合で、がらりと現実が変わってしまったことにあり、母親とも一切連絡をとっていないようだった。

 

片親になっても、

母親のほうに引き取られたかったといっていた。

女の子の心情を父親が理解するところは難しいこともあるので、

お母さんのところがよかったという女の子の

気持ちも理解できなくはない。

 

片親は、母性も父性も両方しないといけないので

大変だと思う。

 

けど、この子には、祖父母がいたので、祖父母が母性的な役割を担っていたように思う。

 

この友達関係は、共依存的だったので、

先生にも親にも近所の人にも離れるよう、注意されていた。

 

具体的に物を盗んだり、何か悪いことを一緒にした訳じゃないが

私にとっては、寂しさを埋めるだけで、あんまり良いことはなかったように今なら思う。

 

寂しくてその気持ちの捌け口が、

家庭や学校以外に欲しかった。

 

親や学校の先生も信頼できなかった。

 

けれど、エネルギーを絵を描くことやピアノを弾くこと、本を読むことなど、

何か別のことに向けていればよかったなぁと思うことがある。

 

毎日新聞の小学生新聞に、絵やイラストを投稿するのが休日の楽しみだった。

 

平日は、

夕ご飯の時間になっても家に帰らず、

その子とずっと一緒にいた。

お互いの両親がきて、やっと解散したように思う。

 

本当にこの子と依存関係になって、この子にいろいろひっぱられてたりして、中学校の初めまで仲良くしてしまったことは後悔している。

 

母も、この子の家の事情を知ってるので、うちで、お昼ご飯を食べさせていたり、

お世話もしていたと思う。

 

友達選びは大切で、自分を合わせすぎないことも大切だ。

 

自分を押し殺して、

合わせすぎると疲れてしまうからだ。

お互いの意見や話を聞いて上手に

折り合いをつけられると良い。

 

中庸が大切だ。

 

けれど、私はそんな不器用な関係しか、築いてこなかったので、未だに友達の良い付き合い方.

距離感がわからず、翻弄されてしまうことも良くある

 

自分の価値観と他人の価値観に違和感を感じたら

依存関係になる前に

早めに離れることも大切だと今なら思える。

 

Ruriha 

 

 

小学校 低学年〜中学年時代 

 

小学校2年生の記憶はほとんどない。

 

近所の仲良し4人組とたのしく友達関係をもって暮らしていた。とくにすごい記憶がなかったので、とても平和な一年だったのだろう。

 

けど、友達の家で、わりと繊細なつくりのおもちゃを壊してしまって、本当罪悪感でいっぱいだった。

友達は許してくれたけど、本音はわからないから、怖い。

 

頭が良い優等生的な子、お転婆な子、スポーツが得意な活発な子。私はどちらかというと 活発だけど根が繊細だから、気にしいだし、上手くバランスとれてたのかは謎。

 

 

そして、私の好きなお菓子はプリンチョコというカップにプリンのチョコレートがたくさん入ってるお菓子、

 

トゥインクルという卵型のチョコレートのお菓子も幼稚園時代から大好きだった。今もたまに買う。

中にグミやラムネ、チョコなどがはいっていて、楽しいし美味しい。銀紙もカラフル。

トゥインクルトゥインクルちゃんが少しキキララに似ている。あと、動物たちの絵も好き

 

なぜかシールがついてる。子どもは好きだろうなという感じ。

 

あと、ヤングドーナツはよく買っていた。

当時の記憶は、30円で、美味しかったから。

少しかためで美味しい。今も食べたくなる。

 

駄菓子屋さんも近くにあったので、よく行っていた。

おばあちゃんがやっていたので、今はもうない。

 

駄菓子屋は不定休で、おばあちゃんが、習い事の日は休みなことが多かった。

 

広告で、駄菓子をいれる袋を手づくりして、

上手く工夫して商売をしていた。

 

今も、違うところだけど、おばあちゃんがやってる駄菓子屋さんがあるので、応援のために、たまに行く。

 

そして

私は昔から花の絵を描くことが好きだった。

ある日、市の広報?フリーペーパーの表紙に私の絵が選ばれたことがあった。

それはそれは嬉しかった。

 

私の描く絵はカラフルで、花を描くことが好きだった。今も花はすごく好きだ。また絵を描きたいと思っている。

 

お絵描き教室で、小学校の同級生とは違う

外国人の男の子と仲良くなって、一緒に木を剣に見立てて、遊んでいたけど遊びが激しすぎて、その子のお父さんに止められたりした。

 

私は、小学校低学年の時、転校生の外国人の男の子に、抱きつかれて、キスされて、(男の子は挨拶のつもり)びっくりして、家に帰ってきてから、泣いたことがある。

 

母に「挨拶だから仲良くしてあげてね」と

優しく諭された気がする。

 

そういえば、家と学校が近かったから、

トイレも、学校であまり行きたくなくて、家に帰るまで我慢して、よく家に帰った途端、トイレへかけこんでいたりした。

 

繊細な子どもだったように思う。

 

3年生頃から、少しづつ変化してきた。

 

それも悪い方に。かな。

 

3年生の時、仲良くしていた、病院の息子の幼馴染が、受験のこと、医者になることを考えて、遠くに引っ越してしまった。

 

私は満足にお別れもできず、また、初恋?の相手だったため、、、

 

とてもショックだった。

医者の子ども、家庭は大変だなぁと思った。

 

幼馴染が引越ししてから、母に手紙を書いたら?といわれたりしたけど、新しい住所もわからなかったので心にぽっかり穴が空いた。 

 

小学校入学時にある程度同じ幼稚園や保育園の友達や仲間でグループができてしまって

市街の私立の幼稚園へ通っていた私と同じ幼稚園に行っていた子が少なくて、

その子だよりだったところがあった。

 

だからその繋がりがなくなってしまって、かなり寂しかった。

 

良いことは、3年生のときに、父が、夏休みの最後の8/30.31にディズニーシーに連れてってくれ、

運良く空いていたホテルミラコスタ

泊まったことと、アリエルのパレードをディズニーランドで見たこと。

 

その時、人魚姫が大好きだから、アリエルの海上でのパレードはとても華やかで楽しかった。

 

ホテルミラコスタには、それ以来泊まってない。

ディズニーに行っても、パーク内ではなく、パーク外のホテルばかり泊まっている。

 

ちなみに、夏休みの宿題は、

ワークだけ7月に終わらせ、面倒なポスター

や書道は、8月頭に終わらせ、自由研究や作文などの労力のかかるようなものを8月の最後に終わらせるという

 

 

1番大変なことを1番後回しにしていたような気がする。

 

まぁ、楽に終わりにできそうなものから手につけるのは、計画性がなくて、本能のまま、素直に生きていたのかもしれない。

 

Ruriha